平凡な転任に見えるが、実は栄転
2015年3月26日、北京市第14期人民代表大会常務委員会第18回会議において、表決の結果、「傳政華を北京市公安局局長の職務から解任し、王小洪を北京市副市長兼公安局局長に任命する」という人事任免事項が採択された。
翌日、王小洪は北京のメディアの前に初めて正式に姿を現わした。黒いスーツを一着に及んだ1メートル80センチのがっしりした体格から見受けられるその第一印象は、58歳という実際の年齢より若々しく見えるというものだった。満票による当選を果たした王小洪は、福建語なまりを残した標準語で、「首都の安全は重大事であり、私は本職務に全力を尽くし、世界第一級のなごやかで住み良い都市の建設のため、持てる力を注ぎ込む所存です」と述べた。
北京市公安局局長というのは、かつての「九門提督」(清朝における北京駐在武官。北京内城の9つの門-正陽門・崇文門・宣武門・安定門・徳勝門・東直門・西直門・朝陽門・阜成門-を警備し、出入りする者の取り締まりをその主たる任務としていた)のようなものである。
21世紀の今日の北京は軍事・政治機関が林立し、経済活動が活発におこなわれ、常住人口および流動人口が3000万を超え、それに伴って改革は重大な局面を迎え、社会は既得利益集団の台頭に直面し、国家資源はいくつかの家族に塾断され、体制的な腐敗が広範に見られ、金融の領域では不文律のルールが氾濫し、社会の富の分配は不公平で、各階層間の対立は複雑をきわめ、政治的・法律的な要求が頻繁におこなわれ、刑事事件および経済事件が激増し、犯罪率は高止まりしている…‥今日の北京市公安局局長の担う責任の重大さは、かつての「九門提督」と同日の談ではないほど大きなものなのである。
王小洪というのは見慣れない名前であり、したがって王小洪は、公安機関あるいは中央組織部の関係者以外の人にとっては、その名前を聞いたことがない新顔であると言える。
だから、「九門提督」が果たしてどこからやってきた人間なのか、その問題はなかなか意味深長だった。
この注目の新人が北京に現われたことは、周永康の暴威をはじめとするその宿痾のゆえに国民の非難の的となっていた中国公安の隊列に改革・粛清がおこなわれる重大な前触れだった。
王小洪は謙虚で温厚な性格であり、言葉遣いが上品で、注意深く、行動は控え目で、自分をひけらかすようなことは絶えてない。たとえ重大な突発事件に直面したり、また大規模な警察力を指揮するようなときでも、筋道がよく立った落ち着きのある穏やかな口調で命令を下し、行動を裁定する。そこには、公安機関の人間によく見られる、大げさな物言いや落ち着きの無さといった通弊は決して見られない。
王小洪は、1957年7月生まれの漢族で、福州人。文化大革命時期には知識青年として農村に下放され、送風機工場で働く。
1979年12月、福建省間侯県公安局に就職。1984年5月、福建省間侯県公安局局長に就任。
1998年2月、福州市公安局局長・同市政法委員会副書記・福建省溝州市公安局局長・同市政法委員会副書記・同市党委員会委員に就任。
2011年9月、アモイ市政府副市長・同市党委員会委員・同市公安局局長・同市政法委員会副書記に就任。
2013年、福建省公安庁副庁長・党委員会委員、福建省国境警備総隊第一政治委員・党委員会第一書記に就任。
2013年8月、河南省省長補佐・同省公安庁庁長・監察長に就任。
2014年12月、河南省副省長・同省公安庁庁長・監察長・同省政法委員会書記、武装警察河南総隊第一政治委員・党委員会第一書記に就任。
王小洪を慌ただしく北京に昇格異動させたところを見ると、中央は重要な人事異動を非常に急いでいたようだ。王小洪が河南省の関係職務機関に辞表を提出したのは3月24日になってからだが、面会(全国人民代表大会と全国政治協商会議)が閉幕した後、彼は河南省に帰ることもなく、中央の関係機関に到着の報告をしたのだった。
公安機関の関係者は、「王小洪が河南省から北京へ異動させられたことを平凡な転任ででもあるかのように言うのは木を見て森を見ずということであり、河南省と首都北京という要地をどうして同列に論じることなどできようか!」と言っている。
河南省から党中央の近くに異動したということは、いわば沼沢や浅瀬から広大な大海へと足を踏み入れたも同然である。中央は王小洪に大きな期待を寄せ、王小洪を重用するという心積もりなのである。つまり、この異動は実際には栄転なのである。
猛将は一介の兵士から、賢相は地方の役人から生まれる
誰のものであっても履歴というのは無味乾燥なものだが、しかしそれにしても、福州出身の一介の知識青年、送風機工場で働いていた平凡な労働者が、いったいどのようにして、最下位の階級の警察官から1級また1級という具合に順風満帆に昇進を続け、首都北京の「九門提督」の鍵を手にしたのだろうか?
公安部から北京市公安局に至るまで、シルバースターの肩章を付けた高級警察官ならいくらでもいるというのに、いったいどうして、この北京の「九門提督」の金の鍵が、王小洪という福州出身者の手中に落ちたのか?それには何か驚くべき秘密が隠されているのだろうか?
ネット上には、関連する論評が書き込まれている。
その1)「自分に自信が持てない公安のリーダーでは、大虎を捕まえ大鏡を振るうことなどできやしないからだ」
その2)「賢(かしこ)き筋-習近平のことを言っている-から力添えしてもらえるなんて、王小洪率いる公安は並々ならぬ強運に恵まれている」
その3)「あの賢き人とこの『九門提督』との星をちょっと占ってみればいい。2人の運命の道筋は交わっている」
偶然というのはあるものだ。それとも天の恵みなのか、筆者の親友の1人がこのタイミングに、実に珍しく、また貴重な、そして歴史的意義のある写真を送ってくれた。この非常に価値のある写真を見れば一目瞭然、上記の「秘密」の謎が解けたのだった。
写真を見た読者は、一目で、福州市台江区にある某機関の門前に立っている警察官の左にいる青年が習近平であるということが分かったはずである。そして、このハンサムな警察官が誰であるかについては、読者は、あるいはすぐには分からないかもしれないが、この警察官こそ、現今の「九門提督」、王小洪公安局局長その人なのである。
この写真は次のようなことを物語っている。
1)見方によっては、習近平には、「革命第二世代」に固有の習性から抜け出た一種のとっつきやすい人柄を窺うことができる。この写真の習近平には、末端の人間に寄り添い、人民に寄り添い、官僚本位思想や権勢思想への執着がない態度が見受けられる。
2)習近平の用いる兵法の極意が窺われる。聞くところによると、習近平は文化大革命時期に知識青年として延安に下放されていたとき、好んで読書をしていたが、父親の影響を受けて、特に司馬遷の『史記』を読むのが好きだったという。だから習近平の頭に蓄積された儒学思想は、同時代の人間より豊かなはずである。習近平は中央の会議で講話をおこなうさい、マルクス主義の理論と中国の歴史・典故を織り交ぜるのだが、それら2者が互いに双方の内容を詳述するものとなっているのを嬉しがっているという。
どうやら習近平は、「猛将は一介の兵士から生まれ、賢相は地方の役人から身を起こす」という中国伝統の任用方法に対しては、身にしみてよく分かっているらしい。自分がまだ一介の副市長であった時代に、自分のめがねに適う人間であると評価した有能な青年を、将来は幹部にしようという心積もりでいる……こういう振る舞いは、少し蒋経国と似ているのではないだろうか?
3)習近平は「革命第二世代」ではあるが、毛沢東が「駅北が中央を救った」という考え方に一貫して反対していたため、陳北派は党内でずっと弾圧されていた。習近平の父親・習仲勅の官途も紆余曲折の連続であり、習近平もその青年時代にはずいぶん失意を味わったが、下放された延安の「広々とした農村」の中で、「自分の田畑には自分が育て上げる苗を植え付けなければならない」という道理を悟ったのである。
中共の政界というのは、たしかに「中国の特色」がきわめて濃厚な場所である。国民党には派閥が林立していると言うが、中共はそうではないなどとどうして言えるだろうか。
習近平は、総書記として北京にやってきて、党・政府・軍隊の内部が複雑に錯綜していることが次第に分かってきたが、とりわけ「康師傳」――周永康のこと。本来は
台湾のインスタントラーメンのメーカーの名前だが、その実名を出すことがはばかられた「周永康」を意味する暗号としてひところ盛んに使われた――が長年牛耳って来た公安機関のことではずいぶん頭の痛い思いをさせられた。
公安機関は、古い習慣にとらわれて、あくまでも役人風を吹かし、するべきことはしないのに、勝手なことはし放題、はなはだしきは闇社会と結託し、賄賂を受け取り法を曲げ、拷問をしては自白させ、誤審案件の連続で、罪なき庶民や妊婦を銃殺し、未払い給与の支払いを求める女性労働者を殴り殺す、という具合で、良心をまったく失くしていたからである。
そういう公安機関のさまざまな罪悪は、つとに全国人民から激しい憎しみと非難を招いていた。
全国公安会議を召集したさい、習近平は、きらきら光るシルバースターの肩章を付けた高級警察官が一堂に会し、演台の下に何列にもなって並んでいる様子を冷ややかな目で眺め、こう考えていた。ここにいるのはほんとうに手足と頼むことのできる者たちなのだろうか、いやそうでないのは明らかだ。誰が育てた苗なのかも分からないし、あるいは内部の政敵がひそかに潜り込ませたスパイであり、時限爆弾であるかも
しれない!
総合的に考えれば、今回、疾風迅雷的に、且つ強力な政治的手段によって、大胆にそして着実に公安機関の再建がおこなわれ、そして福建省の辺境の地から清新な海風を伴って、習近平の「昔なじみ」の王小洪が大任に就くため北京に栄転してきたことは、理の当然だったのである。
警察の綱紀粛正に辣腕を発揮
いくら賢き人の引き立てがあっても、もし本人がその器でなければ何にもならない。かつて江沢民は、政権を担っていたとき、盛んに親類縁者を登用していたが、上海鉄道局で保線員をしていた自分の親戚を、同局の列車公安官に転任させ、そのあと今度は盧湾区公安局局長に抜擢するということもしていた。
しかし、思いがけなくも、その男は汚職と腐敗にまみれた女好きであったため、ついには世間の鼻つまみ者となったのだった。
しかし王小洪は並の人間とは違う。自分から進んで福建省の公安機関に就職し、34年のあいだ決して怠けることなく刻苦勉励し、一歩一歩昇進していったその生き方は、実に几帳面なものであると言うことができる。
2013年8月、中央が地域間交流勤務を大々的に推進したことにより、王小洪はまず最初の地理的大移動を始めることになり、福建省から河南省へと転任し、河南省副省長兼公安庁庁長に就任した。王小洪がその任に就いて間もなく、河南省の公安機関は「活動点検、綱紀粛正」運動を始めた。
そして2013年11月1日の夜、鄭州市のナイトクラブ「皇家一号」が警察と武装警察によって厳重に包囲された。売買春・賭博・麻薬の巣窟であるという嫌疑を受けていたこの名高い高級ナイトクラブは根こそぎにされたのだった。
その摘発がおこなわれたのは、王小洪が河南省公安庁庁長に就任してからちょうど3か月日に当たる日だった。聞くところによると、「皇家一号」の捜査も、やはり王小洪が着任したときから始まったものであり、その過程でおこなわれた、他地域の警察官を動員したり突撃的な捜査をおこなうというやり方は、いずれも王小洪が福建省にいたときから常用していた方式であるという。
今回の摘発における警察官動員の規模やその級別は、河南省では前例のないものだったと言える。唯事ではなかったのは、鄭州の「皇家一号」には大物の勢力が潜んでいたことだった。その陰には権力者がいて後ろ盾となっていたため、2人の前任の公安庁庁長は、いずれも手を出すことができなかった。
だが「王小洪は、余人ができないことに勇敢に立ち向かい『皇家一号』を壊滅させた」というニュースが巻き起こしたセンセーショナルは反応は、北京市公安局がナイトクラブ「天上人間」に対して大規模な摘発をおこなったとき以上のものだった。
聞くところによると、その夜、警察に連行された人間の数は、10数台の護送車にぎっしり詰め込まれるほどのものであり、また、周りで見ていた鄭州市民は、王小洪庁長が「異常な悪性腫瘍」を一挙に片付けてくれたことに対し、しきりに称賛の拍手を送っていたという。
「皇家一号」の摘発は、河南省の警察関係者の間に激震を走らせた。公安職員8人が事件に関わっていたからである。そのうち、鄭州市公安局の王新敏と治安支隊大隊長・李寧の2人は、抜擢されて警察の実力者になったばかりの人間だった。また、鄭州市公安局副局長の周廷欣は、執務室にいたところをただちに「腕を抱えられて連行された」。
そして、駐馬店市党委員会書記で、以前は長いこと鄭州市の公安職員を務めていた劉園慶も失脚した。さらに、河南省新郷市公安局のトップであった孟鋼にも、河南省検察院による捜査の手が及んだのである。
「皇家一号」を壊滅させた河南省は、警察の綱紀粛正運動を大々的に展開し、各種の問題を厳重にチェックして、警察官56人を免職にし、規格に合わない警察協力員(臨時雇いの補助警察官)1224人をお払い箱にし、そして顕著な問題点が指摘されていた120の指導グループの顔ぶれを入れ替えた。
王小洪が強力に推し進めた公安機関の綱紀粛正に、河南省の人民は希望の光を見たのである。
公安大学管理学部の副学部長である魏永忠教授は、「中央が王小洪を抜擢して北京に異動させたことは、慎重におこなわれた選択であったはずであり、またきわめて正しい選択だったと言うべきである」と語っている。
北京市常務副市長の李士祥は、任免議案についての説明のさい、王小洪を称賛して、「王小洪は末端の警察官から身を起こし、省・市・県という3つの級の公安機関で働いた経験があり、政治がデリケートなものであることや大局的な意識について理解が深く、複雑な問題や突発的な事件を処理する能力も優れている」と言っている。
王小洪が公安局局長に就任した北京では、5月23日、警察当局が次のような発表をおこなった。「西城区の『塞納河クラブ』、海淀区の『紫御国際クラブ』、同じく海淀区の『豪錦時代国際会館』、朝陽区の『嘉楽麗カラオケホール』、同じく朝陽区の『紫水晶カラオケホール』、同じく朝陽区の『今夜星光カラオケホール』の6つの娯楽施設に対し、売春および賭博という違法行為をおこなった容疑で、営業の一時停止と業務の見直しを命令した」
(「月刊中国」2015年9月号より)
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