中国大陸におけるモラルの崩壊は、政権党が自分の利益を守るための意図的行為である。つまり、マルクス主義信仰が崩壊した後、金銭至上主義という悪魔の箱を開けたが、それは中国大陸の民族の意志や希望を腐敗させるためだった。
とてつもない瀆職・職務上横領
2007年5月9日、最高検察院捜査監督庁長の楊振江と同副庁長の宋寒松の2人が期せずして、「とてつもない腐敗がおこなわれている」ことが憂慮される、と語った。宋寒松は、「賄賂を受け取るような汚職犯罪は1件平均15万元だが、横領などの瀆職犯罪による損失は1件平均258万元だ」と言っている。
瀆職犯罪による1件平均の損失額は、賄賂を受け取る汚職犯罪に関わる金額の17倍というわけである!統計が明らかに示しているように、2003年以来、検察機関が処分した各種の瀆職犯罪は、357億3000万元にも上る直接的な経済損失を国にもたらしている。
また、この4年以来、全国の検察機関が立件し処罰した漬職犯罪事件は合計3万件近くになっている。
2009年、上海市の検察機関は、合わせて567人が関与した407件の職務上横領事件を受理し、そのうち350件と容疑者501人の処理を裁判所に移送した。また2010年には、722人が絡んだ423件を受理し、そのうち408件と容疑者661人の処理を裁判所に移送した。
職務上横領はすでに農村にも蔓延し、村長による犯罪がますます普遍化の一途をたどっている。職務上横領に関わる金額は、ややもすると数十万元、数百万元、数千万元、ひいては1億元を超えることもある。
企業における職務上の犯罪もかなり深刻なものである。科龍電器では、董事長の顧雛軍をはじめ9人の高級管理職が会社の資金7億4600万元を使い込み、会社の資産4000万元を不法に占有した。また健力宝集団では、董事長の張海が同集団の資金1億2000万元あまりを不法に占有し、8644万元を使い込んだ。
投身自殺現場のモラル
上海の記者・沈戩は、もっぱら突発的な事件を、その現場に足を運んで取材している。2011年8月23日、沈戩は投身自殺の現場を取材したのだが、沈戩にとって、投身自殺の現場を取材するのはそれが6度目だった。
投身自殺の現場には、必ず、待ち遠しいという顔をした野次馬がいて、飛び降りようとしている人間に向かい「腹をくくったらどうだ、跳び降りるのならさっさと飛び降りろ「」「飛び降りろったら飛び降りろ、こっちは足がしびれたぞ。飛び降りないのなら、もう行ってしまうぞ」などと叫んでいる。はなはだしきは、「飛び降りるか、飛び降りないか」という賭けをしている者もいる。「ぜったい飛び降りないね。もし飛び降りたら、今夜おれがおごるよ!」そして毎回、自殺者は躊躇した挙げ句、最後には飛び降りて、拍手喝采を浴びることになる。
沈戩は、野次馬たちが叫ぶこういった耳障りな声を、まず2007年に海口と成都で聞き、2009年に上饒と成都で聞き、2010年に鞍山で聞き、そして上述したように上海で聞いたのだった。
清華大学教授の萬人俊は次のように言っている。「多くの人は、他人の災難は自分とは関わりのないことだと考えている。中には、他人の災難を見るのは自分にとっては幸運なことだと思っている者もいる。…社会は今、非常に危機的な情況にある。人々はすでに羞恥心を失い、善悪の観念を亡くしているからだ」
上海の或る女子大学生が、建物の4階の窓台によじ上り、投身自殺を図ろうとした。建物の下では野次馬が大勢集まって、擬し立てたり皮肉混じりの冷ややかな言葉を浴びせたりしていた。とうとう女子大学生は身を躍らせたが、幸いにも、地面に敷かれていたエアークッションの上に落ち、軽傷を負っただけですんだ。
しかし、なんともがっかりさせられたのは、野次馬の言った「そもそもこの程度の高さじや、落ちたって死ぬはずがないじゃないか」という論評だった。作家の梁暁聲は、それは中国の現代の文化にヒューマンケアの理念が不足しているからだ、と言っている。
教授を殴った法学部准教授
2012年4月、武漢大学法学部准教授の陳少林は林莉紅教授を殴った。それは「教授に選定されなかった」からであり、林教授がその審査委員なのだった。また、さきごろ、清華大学法学博士の王進文が、自分の家が取り壊されて立ち退かされるのを防ぐため、公開状を発表するという挙に出てメディアの関心を引いた。王進文は、自分は正常なルートを通じて権益を守ろうとしてきたが、正当な手段に窮し、万やむを得ず法律に反する手段に訴えたのだと述べた。
『文摘報』は前者の事件を、「法学部准教授、法学の悲哀を一撃」というタイトルで報道した。法学界の高級インテリでさえ法律を信用せず、「ジャングルの掟」(弱肉強食の法則)にしか従うことができないというところに、中国の法律の社会的信頼度の一端が窺えるのである。
約束を破った政法委員会書記
2011年5月25日、貴州省交通庁管轄下の六盤水高速道路建設工事現場で、賃金の未払いを訴えるためとして、建設作業員をしていた出稼ぎ農民の張剛と譚勇が、それぞれ別の塔形クレーンによじ登った。70日間続いた睨み合いの後、六盤水市政法委員会副書記は、「降りてくればただちに賃金を支払い、責任の追究もしない」と請け合った。
ところが、2人が降りてくると、賃金が支払われなかっただけでなく、「社会秩序を撹乱した」として刑事拘留されてしまった。2人の出稼ぎ農民は、何も好き好んで、クレーンに登って未払い賃金の要求をしたわけではなく、「賃金の未払いを訴えに行くことのできる所にはすべて行った」のだが、誰にも取り合ってもらえず、さまざまなプレッシャーの下で、塔形クレーンによじ登るという自虐的な手段を選んだのである。「クレーンに登れば注目してもらえるだろう」と思ったからである。
2011年の初め、『刑法修正案』により、「悪意による賃金未払い」は犯罪であると認定された。政府がおこなう建設工事であっても、やはり賃金の未払いが発生している。しかし、いちばん怖いのは、政法委員会書記が自分の言ったことに責任を取らないことなのである!
18年間に10人の市長
1993年3月10日から2011年3月19日までの18年間に、河北省邯鄲市の市長は10人が次々と入れ替わり、いずれもその任期が2年に満たないものだった。
邯鄲市の経済発展は、唐山より立ち後れているだけでなく、滄州と比べても見劣りのするものとなっている。市民も市政府の現場幹部も、邯鄲市の発展が停滞している主
たる原因の1つは、市長があまりにもしばしば交替しているという、まさにそのことであると考えている。
市長の度重なる交替は、もちろん、全市民963万人の意向によるものではなく、お上(かみ)の意向によるものである。組織にとって必要なことであるならば、全市民の同意などまったく必要とはせず、人民代表大会による手続きを通すことさえ必要としないのである。
河南省汝州市や江蘇省連雲港市などでも、同じように市長が頻繁に入れ替わっている。
新しい役人というのは、普通の場合、就任すると先ず情況を把握し、次に考え方を確定し、続いて幹部の人事異動をおこなって自分の意図を貫徹する。新任の市長がそういうプロセスを完成させるためには、だいたい2年の時間を必要とする。
5年の任期というのは、政策が安定し継続しておこなわれるために必要な最低限度の時間であり、行政上の実績を検証するためにもどうしても必要な時間である。頻繁に市長を代えるというのは、市民の利益をまったく考えていないことの表われである。衣替えでもするかのように市長が入れ替えられているのに、どうしていつも「お上(かみ)の意向!」という名文句を盾にして、誰もそのことを追究しようとしないのだろうか。
世俗化した学術界
2006年の面会(全国人民代表大会と全国政治協商会議)の期間中、全国政治協商会議の常務委員で国務院の参事でもある任玉嶺が、同会議の委員たちに或る調査結果を公表した。それによると、調査を受けた180人の博士のうち、その60パーセントが、学術誌に論文を発表するために金を使ったことがあると認め、また、やはり同程度の割合の者が、他人の学術成果を剰窃したことがあると認めている。
復旦大学図書館は長年にわたり、もし受け取ったとすれば数百万元に上ったであろうリベートの受け取りを拒絶してきたが、また経費の支出を一般に公開してもきた。これは「鶏群(けいぐん)の一鶴(いっかく)」と言うべきものである。
2011年8月1,7日、北京大学生命科学学部の学部長である𩜙毅教授は、中国科学院の会員を選抜する予備審査で落選したが、それは彼が2010年9月に清華大学の施一公教授と共同執筆し『科学』誌に掲載した文章の中に次のような言葉があったからである。
中国における、重大なプロジェクトに携わるための1つの公然の秘密というのは、役人や役人のめがねにかなった専門家とコネをつけることのほうが研究に磨きをかけることより重要だ、ということである。
また𩜙毅教授は、中国科学院会員の予備審査会議が始まる直前という肝心な時期にも、「中国科学界の軽桃浮薄を減少させるために踏み出す必要のある第一歩」という文章を発表している。「海外留学帰国者」であるこの学者は、その「逆淘汰」に遭遇した後、科学関連のウェブサイト上にブログを発表し、二度と中国科学院会員に立候補しないと言っている。
医者の副業
「心臓ステント手術」の専門医は、毎週1日半だけ勤務して、あとの時間はすべて、「ステント取次販売業者」と一緒になって小さな病院にステントを売って回るという副業をしているが、その業者と共に1度出かけると、2万元以上の収入になっている。
控え目に見ても、その副業による1年間の収入は500万元以上である。その種の専門医の1人は、記者に、自分は毎月新型のアウディを1台買うことができるほどの収入(60万元)を得ていると告げたが、ステント取次販売業者の王明理は、その専門医の資産はすでに数千万元にはなっているだろうと言っている。
王明理がひそかに記者に教えてくれたところによると、患者にステントを挿入する必要があるかどうか、またステントをいくつ使うかについては、完全に医者の徳性や良心によって決定されるべきものではあるが、巨大な利益を前にすると、医者の徳性や良心は往々にして脆弱きわまりないものになってしまうのだという。
王明理の経験では、ステントを挿入すべきかどうか判断が分かれるような患者の場合、医者はたいていステント挿入を主張するという。国産の冠動脈用ステントの出荷価格は1つ3000元足らずだが、病院への売値は2万7000元になる。また輸入物のステントの出荷価格は1つ6000元で、病院へはそれが3万8000元で売られている。
そして病院は、仕入れ値に15パーセントを上乗せして患者に売っている。ほとんどすべての心臓ステント手術専門医が、裏で何人かのステント取次販売業者と結託しているが、ステント取次販売業者は、そういう医者のためなら、子供の送り迎え、朝食の調達、家のリフォームなど、何でも喜んでしようとする。
或る業者は、3年ものあいだ医者の子供の送り迎えをしていたが、そうしているうち、その医者のおかげで「金持ちになった」という。
読書と金は反比例
2011年4月8日付けの『人民日報』は、「読書好きなのに貧しくてそれが叶わない人々がいる一方、富裕層はほとんど読書をしない」と報じている。中国出版研究所の調査によると、書籍の最多購入層の月収は3000元から5000元であり、高収入の人々はほとんど本を買っていない。この現象は、社会全体の価値の指向の歪みを映し出している。
読書をしない人々はなぜ金持ちなのだろうか?読書をする人々はどうして金持ちではないのだろうか?その問いは、社会の価値とは何であるかという問題にほかならない。
欧米や香港・台湾では、一般的に言って、無学の人が大金持ちになることはできないし、たとえ金持ちになったとしても、無学な人が自分の無知を誇りに思うようなことはないだろう。
知識が力となるような社会では、どうして無知な人間が無知ゆえに自信を持つなどということがあり得ようか?ところが中国では、まさしく逆転現象が起こっていて、読書と金は反比例しているのである。
大学生の入党
或る修士は、大学生のとき「徴発され」て共産党への入党を勧められた。しかし彼は、数百人が参加する共産党短期セミナーの授業を1期12回受けただけだった。しかし、共青団支部の委員をしていたため、積極的に団員に入党を働きかけなければならず、「あるいは自分が先頭に立って入党するべきなのかもしれない」とも考えた。
大学の先輩も、「もし入党しなければ、奨学金も、先進的な学生であるという評価も、無試験での大学院への進学も、みんな、おまえには無縁のものとなるんだぞ」という、ぞっとするような口ぶりで彼を説得した。それで彼は入党したのだが、その後1枚の書類に必要事項を記入して、それですべてOKなのだった。
地方によっては、学生が入党しようとするとかなり煩わしい思いをしなければならないところもある。まず、3級の研修訓練班・積極分子研修訓練班・党員発展向上班・新党員研修訓練班へ参加することが求められる。そしていずれの研修訓練班にも半年間参加しなければならず、週に5日の夜間授業があり、日曜日には討論あるいは思想報告や読書報告が待っており、それからコンピュータによる試験があって選択問題に
答えるのである。
ふつうは「大学3年」にならないと入党させてもらえず、1学期に1回、3人から4人が入党させてもらえるが、入党できる学生の人数は学校ごとに決まっていて、また「入党積極分子」が入党できるとは限らず、「総合的な資質」によって判断される。いわゆる「党課」(党組織が、党員や入党希望者を対象に、党の綱領や規約に関する教育を施す課程)では、毎回、班長が点呼をとり、学部の党委員会書記または学部の教師が、正しい入党動機について、また党の輝かしい歴史についての講義をおこなう。
「思想報告」というのは、授業を受けた後、その感想文を書くことを指している。
ささやかな願いさえ実現していない
中国の人民にいちばん欠乏しているのは、何と言っても、願いが実現する可能性である。2011-年6月26日、北京の人民大会堂で、上海の「中国東方衛星テレビ局」が制作するテレビ番組「第2回中国達人ショー」の準決勝戦がおこなわれたが、その録画撮りの現場でのことである。
準優勝をした菜花甜媽-55歳の安徽省出身の女性で、本名は蔡洪平-は、司会者に「人生最大の目的」は何ですかと尋ねられると次のように答えた。「私は、人民大会堂に来ることができて、それでもうたいへん満足しています。今度のことは、娘には話しませんでした。だって、私はこれまでの人生で、どんな小さな願いだって実現したことがなかったんですもの。今度のことだって、実現しないのではないかと心配していたんです」
政治的な素養が乏しかったテレビ局のプロデューサーは、そのシーンを削除しないまま放送してしまった。「これまでの人生で、どんな小さな願いも実現したことがない」という言葉には、人生への思いがどれほど込められていることだろうか!このように、「国家の主人公」でありながら地位が低く、「どんな小さな願いも実現したことがない」人が少なくとも2、3億人はいる。こういう社会の環境では、中共を形容する「偉大・栄光、正確」という言葉も看板倒れになるのではないか?
アメリカのヒューマニズム
シカゴの或る映画館でのことだった。スクリーンに臨時に字幕が加えられ、画面の一部が遮られた。放映が終わると、映画館の従業員が出口に立って、同じ映画の無料入場券を配りながらこう言った、「本日は、耳の不自由なお客様が2人おいでになったため、字幕を加えることになり、みなさまにご迷惑をおかけしてしまいました。またのご来場をお待ちしております」
これは、いわば「1滴の水」とも言えるような出来事だが、その「1滴の水」も中国では出現し得ないものである。中国では、どん.な映画館であろうとも、耳の不自由な2人の観客のために臨時に字幕を制作することなどあり得ないし、まして、「またのご来場をお待ちしています」という言葉と共に、利益度外視の「お詫びの無料映画鑑賞券」を配るというようなことは起こり得ない。
ヒューマニズムの隔たりは、結局は細部に現われる。中国の「革命的な人民」は、一生涯、ただ役畜のように大声で駆り立てられるだけで尊重されず、権益を実感することがまったくできない。「国の主人公であることの誇り」は、新聞・雑誌にあるだけで、現実には存在しないのである。
(「月刊中国2015年9月号より)
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